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History

沿革

羽黒は石を打つノミの音で夜が明ける

岩瀬町(現在の桜川市北部地域)の石の歴史は江戸時代からあるが、全国屈指の採石場を誇る稲田地区がこの県の先駆者鍋島彦七郎氏により組織的に開発されたのは明治30年と称されている。わが岩瀬地区はその数年後、即ち明治35年本格的に企業化されたのである。稲田石では、昭和の初め頃羽黒駅から(地名で)稲・池亀迄レールがひかれ、山で採掘された石を羽黒駅まで無蓋車であるトロッコで運ばれた。その当時トロッコは最も進んだ輸送手段であった。 駅からは馬そりで各作業場に運ばるが搬送中に橋の一部がその重さに耐えきれず破損し一時通行止めになった一波乱もあったそうである。

 桜川市岩瀬地区は栃木、茨城両県境を南下する阿武隈山脈の中間にあります。採掘される花崗岩は「羽黒青糠目石」、「稲田みかげ石」、「坂戸石」に加えて、石岡市加波山から採掘される「やさとみかげ石」の四種類となります。

 
明治22年1月16日 JR東日本水戸線開通
明治37年4月 貨物取扱駅として羽黒駅誕生
明治44年 羽黒石材同業組合設立
昭和15年11月 羽黒花崗石材工業組合設立
昭和16年12月 大東亜戦争勃発
昭和19年7月 戦争激烈により組合解散
  採掘業者県石材採掘統制組合加入
昭和22年 羽黒石材商工業協同組合設立
昭和35年10月09日 従業員慰安石材組合運動会開催(第一回)
昭和39年10月10日 東京オリンピック
昭和42年 水戸線電化により貨物引込み線廃止
昭和47年11月03日 石材組合第運動会(第二回)
昭和50年12月21日 羽黒石材商工業協同組合青年部創立総会
昭和56年11月22日 石材組合第運動会(第三回)
昭和62年6月19日〜20日 羽黒稲田真壁さん地区石材コンクール開催
平成3年3月 石匠の道「ラブロード50」着手
 
 

Background

歴史的背景

 「我石といき石我と語る」より抜粋   発行:羽黒石材商工業協同組合(平成7年12月6日)

 全国屈指の採石場を誇る西茨城郡稲田地区がこの県の先駆者鍋島彦七郎氏によ り開発されたのは明治30年と称されているが、わが岩瀬地区(茨城県西茨城郡北那珂村:赤線内側の地区)はその数年後、即ち明治35年本格的に企業化されたものである。

明治22年、東日本旅客鉄道株式会社
(通称:JR東日本)・水戸線が開通

 明治374月、この無尽蔵と称される当地方花崗岩輸送のため、貨物駅として羽黒駅が誕生した。当時町内上城地内山林に最優秀品が無尽蔵に埋蔵されてある事を発見し、これ が採掘に着手し、企業化はようやく軌道にのり当地方の最盛期を現出、月産角材のみにて2,000tを下らずと称せられた。

右写真は昭和30年ごろの鉄道風景

羽黒石材同業組合の創立

 たまたま昭和6年最不況時代に遭遇、各地に倒産続出、石材界も沈滞した。昭和11年之を養うる同業者16名が会合し難局打開の決意も新たに結成されたのが、現羽黒石材商工業協同組合の前身羽黒石材同業組合である。 爾来星霜20年幾多の変遷苦難に遭遇したが・よくこれを克服して現在に至った。町内に於いて石材業を営む者は大小あわせて40指に達する盛況である。

 岩瀬地方の石材が町財政に及ぼす影響は極めて大であった。 茨城県下に全国に誇る採石地区が3つあり、稲田地区、真壁地区、羽黒地区といい、これを県下の3地区と称している。そもそも当地方の花崗岩は火成岩中深成岩に属し、これを構成する鉱物は石英 30%長石65%その他5%であり、また耐圧強度5cm立方体にて43kg重量1立方米 20(75kg)比重2.65である。
 当羽黒地区は、栃木、茨城両県境を南下する阿武隅山脈の支脈が名山筑波山へのびる山脈の中間にあり、主なる産地名は、山口、池亀、平沢、西飯岡、犬田、上城、猿田、友部、西小塙、加茂部等の山林であるが、さてこれ等の山林中より 発掘される石材は多種多様であり、その主なものをあげれば、糠日石、大目石、 中日石、小目石、黒目石及び白糠日石となる。
 このうち糠日石は日本唯一の生産であり、俗に特一級品として日本花崗石の最 優秀品として君臨し名声を博している。
これを産地別に分ければ次の通りである。

山口・平沢・池亀・西飯岡  大目石
上城・大田・西小塙・加茂部   糠日石・白糠日石
猿田   中目石・小目石
坂本・西小塙の一部   黒日石

大目石
糠日石・白糠日石
中目石・小目石
黒目石

なお、品種別用途についてのべれば次の通りとなる。

大目石・中日石・小目石    建築材・橋梁材・仏石材
糠日石            仏石材・彫刻材